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荒木経惟『緊縛礼賛』

荒木経惟『緊縛礼賛』

42ページ / ハードカバー / ハードケース / カラーオフセット
H315 x W265 mm / 685g
edition:1000
2008年刊行
3150円(税込)

モノクロームの静寂の世界に封印された、激しいエロティシズムがパワフルなペインティングによって、新たな生命を息吹く。アラーキーだからこそ繰り広げられる、美しき冷血、香しき目眩。

KaoRi by 20 x 24

Nobuyoshi ARAKI “KaoRi by 20 x 24”

12 シート + カバー (作家サイン) + 木製フレーム入り/ カラーオフセット
H1000 x W670 mm/ 7000g
edition: 75
2012年刊行

2012年、ニューヨークより2ヶ月間のみ、20×24インチサイズのヴィンテージ大判インスタントカメラが日本上陸した際、ホテルの一室をステージに、自然光の中で、ミューズ・KaoRiの撮影が敢行された。現像液の流れる音に耳を澄ましながら量を調節するオペレータと、撮影されたフィルムをすばやく乾燥させるスタッフらとによる、緊張感あふれるコラボレーションワークから生み出された貴重な作品が、フィルム原寸サイズの大型ポートフォリオスタイルにまとめられ、額におさめられた。

photography is “I” 【2】

写真は私である 2

 荒木は、写真には、生(エロス)と死(タナトス)が内包されていると言う。(二つの言葉をつなぎ合わせ、九三年の写真集のタイトルにもなった「エロトス」は、荒木による造語だ。)愛する人との死別は、写真を深くする、と言う。荒木にとっての写真は、彼岸と此岸を揺らぎ行き交う舟である。数年前に前立腺癌が発覚、手術を経て完治した現在、死を想い生を想う感覚はさらに研ぎ澄まされている。

 荒木を知る人の誰もが、率直であたたかい人柄に魅了され、ユーモアに富んだ言葉と豊かな声量を心に焼き付ける。彼のファインダーに対峙するとき、誰もが全力ですべてを提示しようと努めるのはそのためだ。人ばかりではない、街までもが胸襟を開く。彼が磁場とする東京の路上を闊歩するとき、風景のほんのわずかな違和感やすれちがいの一瞥を荒木は見逃さず、電光石火のごとくシャッターを同調させる。その写真は、魅惑と欲望にあふれ、コンタクトシートはいっさいトリミングの必要ない完璧な構図を描く作品群のオンパレードだ。にもかかわらず、彼の写真をうけとめるとき、胸をしめつけられるような切なさが押し寄せるのはなぜだろう。

 八九年夏の陽子の入院以来、荒木は空を写すことが多くなった。翌年一月、「ありがとう」と言って、妻は逝き、その死に姿を撮る。「五〇になったらポートレイトをやると言ってた私に、陽子は〈ポートレイト〉を教えてくれ、撮らせてくれた。最後の最後まで、私に写真を撮らせてくれた」。不思議なことに、臨終を迎えた陽子の病室で開き出したこぶしの花を撮る。「妻が逝って、私は空ばかり写していた。」そして、こうも言う。「プロローグっていうのは、エピローグのことかな。」喪失感に打ちのめされたその年の冬、東京を大雪が見舞った。白い雪の積もるバルコニーを、チロが跳び、跳ねた。妻が実家から連れてきて以来、家族同様に暮してきたメス猫のしぐさは、荒木を励まし、一葉の写真におさめられた。

photography is “I” 【1】

写真は私である 1

 荒木経惟の写真の原点は、本人も公言しているとおり、一九七一年に自らが編集し刊行した、一〇〇〇部限定の私家版『センチメンタルな旅』にある。本書に掲載されている宣言文は、この本の冒頭に直筆を転写・印刷されたのが初出であり、荒木の実質的な「私写真」宣言といえる。『センチメンタルな旅』は、同年に結婚した、妻・陽子との新婚行をたどる赤裸裸なモノクロームの記録であり、日本の写真界に、センセーションを巻き起こした。以降、現在にいたるまで、荒木の写真家としてのトポロジーは、徹底的に、「私=写真」という概念に貫かれている。

 結婚からおよそ二十年後、子宮肉腫によって、陽子は生涯の幕を閉じる。結婚生活を通じて撮られた数多くの写真には、新居(世田谷・豪徳寺のマンションの一室)でスタートした二人の生活の節々、幸福の絶頂を彷彿させる爛漫な笑顔、愛猫・チロと戯れる姿、夫婦水入らずの旅、徐々にさまざまな被写体に浸食されていく広いバルコニーなどがちりばめられ、彼女の発病により歯車を狂わされ、終には、あふれる花に埋もれた彼女の棺のなかの顔へ(『冬の旅』)、と向かっていく。葬式で荒木が抱える遺影におさめられた、華やかなポートレートもまた、荒木の撮影によるものだ。

 陽子が、抜きん出て美しい女性であったことはまぎれもない事実だが、その内側から放出される目映さが、荒木の間断ないシャッター音との化学反応により、増幅されたこともまた、彼の写真に明らかである。荒木は常々、「写真は被写体と時間がつくるもの」と述べている。「空間を撮ってるんじゃない、時を撮っている。時をフレーミングしているんだ」とも。

 荒木経惟は、一九四〇年に、東京の下町、台東区三ノ輪で、下駄職人である父・長太郎、母・きんの長男として生を享けた。江戸期の新吉原のお膝元、遊女たちの無縁仏が多数眠る浄観寺の敷地が幼少時代の遊び場だった。写真を趣味とする父から、多大な影響を受ける。都立上野高校から千葉大工学部・写真学科に進む。大学時代にネアレアリズムに感化され、卒業制作として、映画「さっちん」を制作。卒業年である六三年、大手広告代理店である電通にカメラマンとして入社。その間に、六〇年代、戦後から復興へのエネルギーに漲る時代を背景に、下町の子供たちを撮りおろした写真「さっちん」によって、第一回太陽賞受賞。

 荒木は電通時代、広告カメラマンとしても、確かな力量を発揮している。一方で、社のスタジオを自在に使用できる権利を駆使、秘書職を務め、のちの七二年に妻となる青木陽子らをモデルとした女性写真や、街を歩く市井の人々の膨大な量のスナップなど、みずからの作品を精力的に撮影した。

 夫にさきだたれた母が七四年に没し、喪主を勤める。「こんなにいい顔の母を見たのは、初めてのような気がした。私は凝視した。そこには、現実を超えた現物があった。まさしく、死景であった」。